35.モルゲンロートを訳すと

山々が朝日に照らされて赤くなるモルゲンロート。登山用語でドイツ語ですが、日本語に訳すと「モルゲン=朝(モーニング)、ロート=赤(レッド)」って、そのまんまじゃん。登山用語のドイツ語って、リュック、ピッケル、ヒュッテ結構ありますが死語になりつつあります。
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日本に登山と言う行楽はありませんでしたから、道具もなければ用語もなかったのでしょう。
「山に登る? 山頂の神社にお参りするんか?」
「登るだけです」
「なら、ご来光を拝むのか?」
「いえ、登るだけです」
「登って何かするんじゃないのか?」
「登ることを楽しむんです」
「競争するんか?」
「いえ、独りで登ります」
「楽しいんか?」
「楽しいです」
「あんたのを見てると苦しんでるみたいだぞ」
「苦しい後が楽しいんです」
「判らん」
「物事には、目的とそれを達成するための行為がありますよね。例えば桑名の焼き蛤を食べるために東海道を旅する。行く過程を楽しむわけです。旅することが楽しい」
「焼き蛤は食べなくていいんか?」
「ありゃもっと楽しい」
「んじゃ、階段を登って二階に行って、そこで食べればいいんじゃないか?」
「それも楽しいかもしれない」
「一階で焼き蛤を注文して、建物を取り囲むようになってる周りの階段を登って、やっと二階の席に着くと焼き蛤が出て来るお店」
「何か、違う話になって来た」

他にもドイツ語のまま使われてる言葉があります。
地名のシュバルツバルト=黒い森。
航空会社のルフトハンザ=空気同盟。
自動車のフォルクスワーゲン=国民車。
この辺りはドイツ語のままの方がいいかもしれない。
英語はどうだろう。
コンピュータのIBM(International Business Machines)=国際事務機
国際事務機と林檎の販売競争って結構シュールで、こうもり傘とアイロンがミシン台の上で出会ったようです。
IT では頭文字を取った略語が使われ暗号になります。IT(Information Technology)自体がそうですね。C(Comunication)が入った ICT の場合もあります。略語は増え続けているので、関係ない場合は近付かない方が賢明です。この手の言葉はアルファベット名で発音します。IT(アイ・ティー)で、決してイットではありません。

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昔コンピュータショップで部品を探してたらおじさんが二人入って来ました。あちこち探し、目的のコンピュータを見付けて声を上げました。
「あった、これだ。ジーサン」
それ G3(ジー・スリー:Macintosh G3)って言うんだけど。

34.免罪符、要りますか?

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免罪符は贖宥状(しょくゆうじょう)とも言います。これがあれば何でも許される気がしますけど、元の意味は違ってまして罰だけが免除されます。カトリック教会が資金集めのために発行したもので、ルターの宗教改革のきっかけとなりました。罪を教会が勝手に決めて罰も好きなように決めて、そのための免罪符を売る。いい商売です。神様の代わりである教会が発行するんだから間違ってる訳がない。
「罪」と「罰」は別の物です。「○○の罪」に対して「○○の罰」が下される形になっていて、例えば礼拝をしなかった罪に対して広場掃除のボランティアの罰が与えられます。罪を決めるのは神様の代理である教会なので誰も文句は言えません。
免罪符は与えられる「罰」を免れたり、なかったことに出来る札で、掃除のボランティアが免除されます。罪は別途赦しを乞う必要があります。字が「罪を免れる」になってるのがおかしい。何故だろう。調べてみました。
やはり元の単語に罪を無くす意味はなく、日本語に訳した時に違う字になってしまったみたいですね。「消罰符」とか「罰無紙」の方が正しかったんだ。

「罪」と「罰」の感覚は日本人のそれと微妙に違っています。
「彷徨える猶太人」
都市伝説らしく世界中でお目に掛かれるそうな。イエス・キリストが十字架を背負って、ゴルゴダの丘に向かう途中で立ち寄った家で、軒先で休ませてくれと言うのを断ったとか、水を一杯飲ませてくれと言うのを断ったとか、色々あるらしいのですが、まあ、体よく追っ払った。その時キリストが「私は行くが戻って来るまで待っておれ」と言ったために、そのユダヤ人は終末の日が来るまで世界中を彷徨よってるらしい。
芥川竜之介の小説では、本人曰く「罪を罪と思わぬ者に罰の下りようがない」と言っているけれど、どうもそれは日本的な解釈の気がします。本来なら、本人が思おうが思うまいが罪になってしまうはずで、単純にキリストの呪いじゃないだろうか。そうじゃないと、そのユダヤ人だけに罪を与えたのは変です。

罪と罰
ドストエフスキーの小説です。ラスコリニコフが大きな善行のためには小さな罪は赦されるとして、金貸しの婆さんを殺し、目撃したその妹を殺してしまった。ラスコリニコフは自分が神になったように考えますが、次第に罪の重さに潰されて行く。ラスコリニコフが罪を意識するのは、社会的意識が発展したからと言う気がします。
彷徨える猶太人はキリストの時代で、モーゼの十戒で「汝、盗むなかれ」などと人々にしてはならないことを教えてたくらいですから、行為の善し悪しが社会的に定着していなかった。それに対して十九世紀のロシアは法律も整備されて、人の所業についても判断される。自ら犯した罪の重さを感じるのは、そう言う社会の一員である認識が必要です。

「青の洞門」
ブログの最初で取り上げた菊池寛の小説、青の洞門の主人公、了海(市九郎)は、金のために何人も人を殺してその償いのために一人で洞門を彫ります。殺された親の敵を探しす若者がそれを聞きつけ、仇討ちの果たし合いを迫りますが洞門が完成するまで待ってくれと言われ、ならば完成を少しでも早くしようと手伝います。やがて完成し、敵同士は手を取り合ってウルウル喜ぶのですが、罪と罰はどこに行っちゃったんだ? 方や終末の日まで世界中を歩き回っているのに、こっちは洞門の完成祝賀宴会まで開かれそうな気配です。

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新しいスニーカーを下ろす時、部屋の中で履いて玄関にそのまま出たことがありまして、何となく悪いことをしているような感覚が残っていました。家の中で靴を脱がない人は、これを罪と思わないのだろうなぁ。

33.無印良品 週刊誌ノート B5 サイズ 130 枚(260 ページ)

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無印良品の週刊誌ノートは使い易くて重宝しました。表紙がつるつるの週刊誌風で無地。中身はぺらぺらの再生紙でこちらも無地。折れ曲がっても気にせずに、ペン、万年筆、鉛筆で好き勝手に書けるので打ち合わせ用として使ってました。けれど 260 ページもある。打ち合わせだけで埋まるものではなく、途中からお話のアイディア用になりました。専用の万年筆としてちょうどよかったのが、プラチナ万年筆プレジール。これのブルーブラックで大きめの字で書くととてもよい。ところが週刊誌ノートは廃盤になってしまった。
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無地のノートに書く心地好さを知ってしまったので、無印良品ダイソー、Can Do などの百均で無地、方眼、ドット方眼のノートを探しました。最初は週刊誌ノートがイメージにあったので B5 サイズのノートだったけど、ちょっと大きい気がして A5 を買ってみました。これがまたちょうどいい大きさで、A5 ノートをいくつか使った後、結局 A5 の 20 穴方眼ルーズリーフに落ち着きました。これだとページの入れ替えが出来るので、複数のお話のアイディアがまとまったらそこだけ増やせばいい。それに、パイロット万年筆カクノ+ブルーブラックと、レイメイ藤井のプラスチック軸万年筆+ペリカンブルーブラックがいいのです。全部ルーズリーフに書くと無駄なので、思い付いたことは A6 の反古紙メモに書いておき、残す内容は方眼ルーズリーフに転記しています。
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 レイメイ藤井万年筆(生産終了のようです) こちら >>
紙とペンが決まったら、次はフォルダーの番。最初のうちは百均でルーズリーフを買って、中身を方眼の用紙に替えてたんですが、途中に挟む仕切りがリング部分に引っ掛かる。穴が微妙にずれているんですね。ルーズリーフのフォルダーに用紙と仕切りがセットになってて、お買得感満載ですけど、一種類だけ仕切りの 20 穴が微妙にがずれている。そのフォルダーを使ってると判らないけど、他のフォルダーにその仕切りを挟むと穴の位置がリングの間隔と微妙に違う。何だよこれ? 製造元を見ると「Made In China」。ずれないのは「Made In Japan」と「Made In Vietnum」で、凄く納得してしまった。中国は、こう言う部分は永遠にだめなんだろうなぁ、と思ったのでした。

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結局 20 穴ルーズリーフは紙を差し替えるのが面倒なことが判り、2 穴のフォルダーに 20 穴ルーズリーフを入れて使うようにしました。これなら紙の入れ替えで 20 穴にいちいち合せなくても、真ん中の 2 穴だけでいい。18 穴分手間が省けた。