76.桜の「ゆ」と梅の「の」

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風に吹かれて桜の花びらが窓から入って来た。直径 1cm にも満たない小さな花びらだ。
出窓の上、メモ用紙の上に置いて細いサインペンで「ゆ」と書き、風で飛んで仕舞わないように出窓を締めた。浮き上がっていたカーテンが力をなくして垂れ下がる。カーテンの白、テーブルの柾目とメモ用紙のコントラストが気持ち善い。出窓が開いていた時の、水の匂いに混じった少し重めの風の匂いが軽くなり、目に映る色味も変わった。テーブルの上のクリーム色のメモ用紙と桜の花びら、そして少し滲んだサインペンの「ゆ」の文字に周りの雰囲気も変わった。
「どうするの?」
出窓のカーテンの匂いを嗅いでいた猫のクレディズが来て言う。
「そうだね」
まだ寒いからなぁ、と決めかねている私に答える資格はない。
手を伸ばしたところにある引き出しには、「の」の字を記した梅の花びらが入っている。この間書いて、春風に乗せるタイミングを見計らっていたら、寒い日が続いてそのままになっていたのを早く使えとクレディズは言ってるのだ。
「色の雰囲気が暖かめに変わったから、外の雰囲気に合わないよね」
「花びら飛ばしには暖かくていいじゃん」
不満そうなクレディズ。華やかな桜色の花びらで、土や植木の葉っぱの緑、水色系の雰囲気には合わない。
彼の猫は日向で飛ばした花びらが、暖かい風に乗って庭の端から端まで飛んで行くところを追いかけて行って、物置の前で掴まえるのが好きなのだ。陽気がよくなって、外で花びらを追いかける楽しみをしたくて、うずうずしているに違いない。
私は外の雰囲気がまだ暖かくないからと、それを断る程の自分都合は持ち合わせていないけど、午前中は寒いんだよね。塀で遮られてるから庭に日は差し込まないし、暖かくなるのは昼過ぎ。その時間、クレディズはお昼寝してるじゃん。
高崎駅のフードコートを思い出した。喫茶店の厨房に入る脇に積まれた段ボール箱。レタス、ニンジンが箱から覗き、表の段ボールにどこで付いたか桜の花びらが数枚。室内の暖かさで乾いたのか、2 枚ほど捲れあがっていた。ほら、あるだろう。貼りついていた花びらが乾いて丸く盛り上がっていることって。その周りの段ボールはところどころ湿って色が濃くなっているのだけれど、店の換気扇から放り出される暖気がちょうど当り、花びらを中心に乾き始めている。

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「よしっ」
私は引き出しを開けて、梅の花びらの入ったピルケースを出した。花びらの「の」の字はそのままだ。ピルケースの蓋を開けてさっき「ゆ」の字を書いた桜の花びらを入れて、それに気付いたクレディズはもう待ち切れない。猫と言うよりまるで小犬だな。
階段を下りて玄関から外を回って庭に行く。クレディズもついて来たので、庭に入れるように木戸を開けたままにしてやると、庭に置きっ放しのテーブルまで早足で行って待ち構えて、早く花びらを風に乗せろと待っている。
風が吹いた。桜から花びらが数枚散って、庭の端、物置まで飛んで行った。クレディズが追いかけるかと思ったら、知らん顔して座っている。「ゆ」の字が書いてないことを一瞬で感じ取ったのだろう。さあっと吹いて力を抜いたが風は止んでいない。私はピルケースを開けて花びらを放り出した。クレディズが脱兎のごとく走り出す。子犬になったり兎になったり忙しいやつ。
追いかけて行ってクレディズは物置の前で花びらを掴まえたようだ。鼻の上に「の」と書いたちっちゃな花びらを貼り付け満足そう。
クレディズはゆっくり戻って来た。
「今度、他にある丸い感じの字を書いて。それに、僕も字を読みたいから教えて」
だってさ。飛ばす花びらに書く字を調べるからと、日向でひらがなの本を読む猫は珍しい。
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