74.ぶらりと入って来た女性客

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店の中は静かだった。客はいない。今なら店を出て、新しいビールの樽を取りに倉庫に行っても大丈夫だ。客が来たとしても、うちの客はいい人達が多いから自分が戻って来るのを待っていてくれるだろう。
マスターは急いで出ようとエプロンを脱いでカウンターの上に置いた。

ガラッ。

仕舞った。タイミングが悪い。こう言う時に限って客だ。BGM でジェフ・ベック・グループの「監獄ロック」が掛かった。タイミングがいい。
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初めて見る女性客。どっちかと言うと好みだ。ビールの樽は後にしよう。
「いらっしゃいませ」
「こちら、いいですか?」
女性客は時計を見ながら言う。どうやら待ち合わせっぽい。マスターは一度脱いだエプロンを掛けてカウンターに入った。
「どこかに、お出掛けになるところではなかったんですか?」
「いいえ。大丈夫です」
水とお絞りを出した。
「何にいたしましょう?」
女性はマスターが渡したメニューを見て
「レモンティーをお願いします」
と言った。
「ありがとうございます」
水を入れたやかんを火に掛けようとすると
「あ、ごめんなさい。ミルクティーに変えて貰えます?」
と女性が言った。
「判りました」
お湯を沸かさなければならないから同じだ。
女性は珍しそうに店内を見回している。店のコーナー上に吊られた TV モニタ、窓際にたくさん置かれた民族楽器、正面の壁に大きく貼られたポスター。ポスターには生ビールのジョッキが大きく印刷されている。

ごくり。

女性が生唾を飲み込んだ音がする。
「済みません。ミルクティーまだ作ってないですよね?」
「はい」
「生ビールに変えていただけます?」
「大丈夫ですよ。少と犬、どちらにしますか?」
「少? 犬? このポスターのはどっち?」
大きなジョッキが目の前に迫って来る写真のポスターで、ジョッキに付いた水滴でテーブルが水浸しになりそうだ。ジョッキのビールの泡は零れ掛かっているし。
「これは、犬ですね」
「大じゃなくて犬なんですか?」
女性はポスターを見詰め直した。犬には見えない。
「どちらにします?」
「飲めるかなぁ、犬。あ、待ってやっぱり小、少かな。宙、あ、猫はないのよね?」
女性は考え込んでいる。
「犬だとお通しが憑きますよ」
「他だと付かないの?」
「犬だけですね。猫にも憑きません」

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「ビールの樽がなくなっちゃったんで、新しいのを取って来ます」
「はい」
マスターは再びエプロンを外すと、外に出て行った。女性は窓の外を歩いて行くマスターを目で追った。樽は裏にある倉庫辺りに仕舞ってあるのだろう。ジョッキが大きくても犬なら飲めそうな気がして来た。

ゴロン、ゴロン。

コンクリートの床を転がす音。マスターがビールの樽と一緒に戻って来た。
「犬でよかったですか?」
マスターが聞く。
「ジョッキはその大きさで、中身は大きめの猫くらいで」
「承知いたしました。ありがとうございます」