34.免罪符、要りますか?

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免罪符は贖宥状(しょくゆうじょう)とも言います。これがあれば何でも許される気がしますけど、元の意味は違ってまして罰だけが免除されます。カトリック教会が資金集めのために発行したもので、ルターの宗教改革のきっかけとなりました。罪を教会が勝手に決めて罰も好きなように決めて、そのための免罪符を売る。いい商売です。神様の代わりである教会が発行するんだから間違ってる訳がない。
「罪」と「罰」は別の物です。「○○の罪」に対して「○○の罰」が下される形になっていて、例えば礼拝をしなかった罪に対して広場掃除のボランティアの罰が与えられます。罪を決めるのは神様の代理である教会なので誰も文句は言えません。
免罪符は与えられる「罰」を免れたり、なかったことに出来る札で、掃除のボランティアが免除されます。罪は別途赦しを乞う必要があります。字が「罪を免れる」になってるのがおかしい。何故だろう。調べてみました。
やはり元の単語に罪を無くす意味はなく、日本語に訳した時に違う字になってしまったみたいですね。「消罰符」とか「罰無紙」の方が正しかったんだ。

「罪」と「罰」の感覚は日本人のそれと微妙に違っています。
「彷徨える猶太人」
都市伝説らしく世界中でお目に掛かれるそうな。イエス・キリストが十字架を背負って、ゴルゴダの丘に向かう途中で立ち寄った家で、軒先で休ませてくれと言うのを断ったとか、水を一杯飲ませてくれと言うのを断ったとか、色々あるらしいのですが、まあ、体よく追っ払った。その時キリストが「私は行くが戻って来るまで待っておれ」と言ったために、そのユダヤ人は終末の日が来るまで世界中を彷徨よってるらしい。
芥川竜之介の小説では、本人曰く「罪を罪と思わぬ者に罰の下りようがない」と言っているけれど、どうもそれは日本的な解釈の気がします。本来なら、本人が思おうが思うまいが罪になってしまうはずで、単純にキリストの呪いじゃないだろうか。そうじゃないと、そのユダヤ人だけに罪を与えたのは変です。

罪と罰
ドストエフスキーの小説です。ラスコリニコフが大きな善行のためには小さな罪は赦されるとして、金貸しの婆さんを殺し、目撃したその妹を殺してしまった。ラスコリニコフは自分が神になったように考えますが、次第に罪の重さに潰されて行く。ラスコリニコフが罪を意識するのは、社会的意識が発展したからと言う気がします。
彷徨える猶太人はキリストの時代で、モーゼの十戒で「汝、盗むなかれ」などと人々にしてはならないことを教えてたくらいですから、行為の善し悪しが社会的に定着していなかった。それに対して十九世紀のロシアは法律も整備されて、人の所業についても判断される。自ら犯した罪の重さを感じるのは、そう言う社会の一員である認識が必要です。

「青の洞門」
ブログの最初で取り上げた菊池寛の小説、青の洞門の主人公、了海(市九郎)は、金のために何人も人を殺してその償いのために一人で洞門を彫ります。殺された親の敵を探しす若者がそれを聞きつけ、仇討ちの果たし合いを迫りますが洞門が完成するまで待ってくれと言われ、ならば完成を少しでも早くしようと手伝います。やがて完成し、敵同士は手を取り合ってウルウル喜ぶのですが、罪と罰はどこに行っちゃったんだ? 方や終末の日まで世界中を歩き回っているのに、こっちは洞門の完成祝賀宴会まで開かれそうな気配です。

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新しいスニーカーを下ろす時、部屋の中で履いて玄関にそのまま出たことがありまして、何となく悪いことをしているような感覚が残っていました。家の中で靴を脱がない人は、これを罪と思わないのだろうなぁ。