03.梅の実が熟す頃の雨

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梅雨ってこんなにじとじとして暑かったっけ?
涼しかったことやじめじめした記憶はあるものの、暑くてじとじとした感覚そのものはあまり覚えていない。じとじと感の記憶って残らないのでしょうか。

食べ物の記憶は割とはっきり思い出せます。皿の上から二本並んだ焼き鳥の一本を取って(これはタレの方)、口に入れた時の香ばしい香り、一切れだけ前歯で噛んで串から抜くと香りとタレの味が少しだけ、予告編みたいな感じで口の中に広がって、
「あふ、あふ」
と言いながら噛むと、今度は甘辛いタレの味と肉の味がじゅわっと広がり、タレの焦げた香りがふわぁっと広がります。熱いので急いでビールを
「ぐび、ぐび」
と流し込む。
「ふぅ」
口の周りに付いた泡を拭きました。
次に、お通しのセロリの千切りを摘まんでマヨネーズを付けて口に入れると、
「しゃき、しゃき」
と歯切れのよい音、冷たくて水っぽい味に遠くで苦みがあって、それを包みこむマヨネーズの芳醇な味。塩で食べてもいいな。今度はそっちにしよう。

 食べ物が登場するお話「胡乱五話 好亭」 >>

じとじと感ってのはいくつかの感覚が混じり合っていることに気付きました。暑さ、体を包む熱気、湿気、腕や顔の湿った感じ、腕にべとつく袖や肘を付いた机。これら全部が混ぜ合わさってじとじと感を醸し出しています。断然、焼き鳥の方がいい。
湿った感は思い出せても暑さ感はそれほど思い出せません。食べ物と違ってゼロの状態がないからではないでしょうか。

食べ物は常に口の中に存在する訳ではなく、食べた時に食感、味、香りなどを感じます。当たり前ですが。口に何も入っていない状態をゼロとすると、さしずめ焼き鳥は星五つに相当します。セロリは星三つくらい。
これに対して、暑さ寒さはゼロの状態がなく常にどれかの状態に置かれている。ちょうどよい気温と思ってもそれはゼロと言えない。個人差があるので、自分が涼しいと思っても人は寒いと言うかもしれない。小学校低学年の子なんか冬でも半袖Tシャツで歩いてるじゃないですか。

沖縄ロケに行った時のことを思い出した。レンタカーで撮影場所を探してあちこち回っていると突然雨が降り出しました。ところが道を歩く人が平然としているではありませんか。普通は前屈みになるとか、手を頭に乗せるとか、濡れてもいいバッグを傘の代わりにするとか、それを全くしないのです。
「こら! 傘を差さんか、傘だ、傘」
言っても通じない。その後に見た何人かの通行人も同じ、平然と歩いていました。ホテルに戻ってスタッフと協議の結果、沖縄は雨が降らないから突然の雨への対応を考えてないのではないか、との結論に達しました。話が外れた。

暑さ寒さには、さらに個人差と比較の問題が存在します。暖かい地方の人は東京の冬がやたら寒く感じるでしょうし、北海道では全室暖房でTシャツ一枚で暮らしているので東京の冬が寒く感じると、旭川の友人から聞きました。春から夏に変わる時、逆に秋の訪れを感じる時、気温は同じでも一方は暑く、もう一方は涼しく感じます。

他の記憶、痛さは想像できるけど思い出せないようになっているみたいです。注射の痛さ、歯医者さんの痛さも本当の痛さは思い出せない。思い出したくないけど。
本来の痛みを十とすると、記憶にある痛みはニか三くらい。もし本来の痛みを記憶出来て完全に思い出せるとなると拷問の方法が変わって来ます。痛みの記憶と、パブロフの条件反射を使った拷問。

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「もう一度聞くが、解読キーの在処はどこだ?」
 椅子に縛り付けられた男は、質問を無視して横を向いた。
「隊長。白状する気がなさそうです」
「どうします? 隊長」
 制服の男は孫の手で肩を叩きながら部屋を歩き回っていたが、決心したように立ち止まった。
「仕方ない。例の物を持って来い」
「えっ!? やるんですか?」
 他の者達にも動揺が広がる。
「ど、どうしよう」
「俺も見てらんない…」
「だめな奴は後ろを向いてろ!」
「隊長は?」
「うるさい! 私も後ろを向いてる。持って来い!」
 ガチャ。ドアが開き、白衣を着てマスクをした男がガラガラ音を立てて台車を押して入って来た。台車の上には細い注射器、中くらいの注射器、かなり太い注射器が乗せてある。
「始めろ!」
 隊長はそう言うと後ろを向いた。
「ひひひひ。これを見て痛さを思い出してもらおうか」
 白衣を着た男は、椅子に縛り付けられた男の腕を捲り上げる。男は抵抗したが左の二の腕がむき出しになった。白衣の男は台車からアルコールを染み込ませたガーゼを取り上げ、むき出しになった腕に丁寧に塗る。アルコールが蒸発して熱を奪い腕がひんやりとして、これからチクッ、プスッと注射される痛さが思い出される。
 白衣の男は細い注射器を取り上げてゆっくり腕に近付けた。
「ふふふ、ほうら注射するぞー、注射するぞー」
 白衣の男は嬉しそうだ。
「わぁっ!」
「お前が叫んでも仕方ないだろ」
「だって痛さを思い出しちゃったんです」
「隊長…」
 声を出せずに震える隊長。椅子に縛り付けられた男も、制服達も震えている。
「まだこれは細い注射器だ。次は中くらいのやつだ。これはもっと痛いぞ」
 白衣の男は中くらいの太さの注射器を取り上げた。
「うわぁぁぁ!」
「だめだぁ! 思い出しちゃう!」
 制服の男が部屋を飛び出した。
「おれは一番太いやつまで我慢する」
 拷問は我慢大会になってしまった。

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昔の物語に登場する悪者達は、なんとなく憎めません。悪者達が登場するお話です。

 壜詰の不安 >>

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記憶にある痛みが、本来の痛さと同じでなくてよかった。
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」ってのは正しいけど、忘れる、って言うより記憶出来ない気がします。「喉元過ぎて熱さ覚えず」だな。
「喉元の熱さをビールで冷やす」方が適切でしょう。一生懸命冷やさなくちゃ。